・現代アート(アンディ・ウォーホル以降)を参考に、現代詩の状況を俯瞰できないか
・詩とはどのようなものか
A. 社会への憤懣やコミュニケーションの課題、思想、歴史など社会的テーマを内包
B. パーソナルな感情の発生ややり取りから生まれるもの
C. バックグラウンドなき言語表現、テーマすらない、言語的な遊戯・冒険
…等々
・「詩人が書き、詩人が読むだけ」という閉鎖性、本当にそうなのか
・詩は偏在している、あらゆる文がとらえようによっては詩になる
言語は言語としてそこにある
・小便器さえ署名され美術館に置かれることで、アート作品に変わる
(美術館は鑑賞者を担保するための装置、市場価値を付加する背徳的側面もある)
・一方で、詩集というパッケージに価値はあるのだろうか
・〈鑑賞する側〉から考える、詩という存在
・鑑賞によって作品は完成する、すべての鑑賞は率先して受け入れられるべき
・作品は自由にとらえて良い→一つの作品は鑑賞の数だけ多作品化する
・鑑賞され完成された作品を公開する場があると良い、どんな形態になるのか分からないが
コメント欄では浅すぎ、各人のブログでは遠すぎる、例えば感想が併記された詩集??
・詩集の市場拡大にこだわっても仕方ない、書籍の市場も縮小している
・数千円で売られる詩集は、希少品や高級嗜好品、コレクターアイテムになりつつある
装丁美や作家の権威や人気によって〈アート作品化〉する この場合は別の市場が生まれる
・おれたちの詩はどこにあるべきか、どこへいくべきか?
(余談)
詩集はもっと身近に自由に安くあって良い。数十〜百ページ越えの詩集では重すぎる。これからは5〜10作品を20ページくらいにまとめた平綴じの小冊子(zine)が主流になるかもしれない。「切り売り」ではないが、魚屋や肉屋と同じだ。マグロ一匹、牛一頭までは必要ない。コンビニのネットプリントなども面白い。その分「消費」のスピードは加速されるだろう。しかし、それでも残るもの、繰り返し読まれる作品がきっとある。
一方で、言語をマスコット化、インスタレーション化、動画化することで、鑑賞の場を新しく拡張させようとする動きもある。駅の柱に詩を貼ったり、展覧会を開催したり、小物を売ったり。
昔、ウォークマンという再生装置が、音楽の聴き方を一変させた。今まさに詩集を脱ぎ捨てる時期なのかもしれない。新たな形態・媒体を工夫したり生み出すこともまた、創作の一端である。
…本当は、そんなことどうでも良い。
まずはそこにある詩を、楽しむことだ。