たるんとしたその重みは欲望への供物
ひらかれた峡谷に彷徨いこむアナコンダを
キリキリとしめ上げてやりたい
おまえのアナコンダは小さく悲鳴を上げ
びちちびちち と、のたうちまわり
白いげろにまみれながらちぢんでゆくのさ
精気を吸って太くなったわたしのふとももは
ただ、ぶよぶよと揺れるようにわらっている
たるんとしたその重みは欲望への供物
ひらかれた峡谷に彷徨いこむアナコンダを
キリキリとしめ上げてやりたい
おまえのアナコンダは小さく悲鳴を上げ
びちちびちち と、のたうちまわり
白いげろにまみれながらちぢんでゆくのさ
精気を吸って太くなったわたしのふとももは
ただ、ぶよぶよと揺れるようにわらっている
誰だって雪の中を歩いていくような孤独を飼っている
ずぶ ずぶ ずぶ
と真っ黒い雪に足を沈めながら進むしかない
うしろからは赤い口をめくりあげた狼の群れ
この腐った身は重力のくびき
手も足も、眼球も耳朶もちぎれて飛んでゆく
錆びた鉄の森を抜ければ、雪原
どこまでも白い ただただ白い
どんな白より、もっと白い
白
手なぐさみとも言う
セックスはずっとしてない
せいきはいじる
いったあと違和感が残ってたので禁欲した
一週間やりすごしてこわごわやってみたら
ニューッて感じがあって止まりそうになったけども
そのまま突っ走ったら、いけた
なんというか
甘やかなふしぎないきだった
下腹が疼くのであけてみたら
ヴァップブァバァーッという汚らしい呪文とともに
虹色の内蔵が飛びだした
便秘が明けたときのような解放感
とともに、もう子供は産めませんというお札を貼られる
軽くなった体で不浄ともお別れ
下界の、ドス黒い人間の群れ
白目の白だけが異様にギラギラしている
そのカタマリにダイブする
いく いく いく
ああ、何もかも
しぼり出したいしぼり出したいしぼり出したいしぼり出して
身の果てまでも心の最底辺までも出して出して出してやりたい
・現代アート(アンディ・ウォーホル以降)を参考に、現代詩の状況を俯瞰できないか
・詩とはどのようなものか
A. 社会への憤懣やコミュニケーションの課題、思想、歴史など社会的テーマを内包
B. パーソナルな感情の発生ややり取りから生まれるもの
C. バックグラウンドなき言語表現、テーマすらない、言語的な遊戯・冒険
…等々
・「詩人が書き、詩人が読むだけ」という閉鎖性、本当にそうなのか
・詩は偏在している、あらゆる文がとらえようによっては詩になる
言語は言語としてそこにある
・小便器さえ署名され美術館に置かれることで、アート作品に変わる
(美術館は鑑賞者を担保するための装置、市場価値を付加する背徳的側面もある)
・一方で、詩集というパッケージに価値はあるのだろうか
・〈鑑賞する側〉から考える、詩という存在
・鑑賞によって作品は完成する、すべての鑑賞は率先して受け入れられるべき
・作品は自由にとらえて良い→一つの作品は鑑賞の数だけ多作品化する
・鑑賞され完成された作品を公開する場があると良い、どんな形態になるのか分からないが
コメント欄では浅すぎ、各人のブログでは遠すぎる、例えば感想が併記された詩集??
・詩集の市場拡大にこだわっても仕方ない、書籍の市場も縮小している
・数千円で売られる詩集は、希少品や高級嗜好品、コレクターアイテムになりつつある
装丁美や作家の権威や人気によって〈アート作品化〉する この場合は別の市場が生まれる
・おれたちの詩はどこにあるべきか、どこへいくべきか?
(余談)
詩集はもっと身近に自由に安くあって良い。数十〜百ページ越えの詩集では重すぎる。これからは5〜10作品を20ページくらいにまとめた平綴じの小冊子(zine)が主流になるかもしれない。「切り売り」ではないが、魚屋や肉屋と同じだ。マグロ一匹、牛一頭までは必要ない。コンビニのネットプリントなども面白い。その分「消費」のスピードは加速されるだろう。しかし、それでも残るもの、繰り返し読まれる作品がきっとある。
一方で、言語をマスコット化、インスタレーション化、動画化することで、鑑賞の場を新しく拡張させようとする動きもある。駅の柱に詩を貼ったり、展覧会を開催したり、小物を売ったり。
昔、ウォークマンという再生装置が、音楽の聴き方を一変させた。今まさに詩集を脱ぎ捨てる時期なのかもしれない。新たな形態・媒体を工夫したり生み出すこともまた、創作の一端である。
…本当は、そんなことどうでも良い。
まずはそこにある詩を、楽しむことだ。